真田丸で高島政伸が演じる北条氏政は本当に無能だったのか~汁かけ飯の逸話が定着~

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さて記念すべき第1回目は、歴史好きにとって名は知られているものの、それほど注目される存在ではない武将にスポットを当ててみます。

主人公は、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」で俳優の高島政伸さんが怪演し一躍有名になった小田原北条家の4代目北条氏政です。

氏政というと、食事の時に何度も汁をかけているのを父親の氏康が見て、毎日食べる食事の分量も測れないような器量であるから北条家も先が長くないと嘆かせた、いわゆる汁かけ飯の話が有名ですが、実際にそこまで能力がなかったのかといわれると首をかしげずにいられません。

歴史は時として敗者に残酷なまでに厳しいことがあることから、この氏政の逸話も後世の創作である可能性もあります。

そこで、今回は彼の経歴を振り返ってその人となりに迫ってみたいと思います。


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1.家督相続まで


北条氏康は、1538年、後北条氏の3代目氏康の次男として誕生しました。幼名は乙千代丸。長男が夭折したために、北条氏の4代目としての期待を背負って育ちました。

なお、後北条氏と呼ばれるのは、鎌倉時代に執権を務めた北条氏と区別するためで、両者の間に直接の血のつながりはありません。

1554年、17歳の時に甲斐の武田晴信(後の信玄)、駿河の今川義元との間で有名な三国同盟が締結され、その証として晴信の長女、黄梅院と結婚します。

1559年、22歳の時に父氏康より家督を譲られ、晴れて4代目として北条家の当主に就きました。もっとも、氏康の存命中は両頭体制であり、実権は引き続き氏康が握っていたようです。

2.氏康との両頭体制


1561年には、長尾景虎(後の上杉謙信)に本拠地である小田原城を攻められますが、氏康とともに徹底した籠城戦を展開し、武田信玄の支援も受けてこれを撃退することに成功しました。

その後、信玄と連携して景虎との戦いを展開し、第4次川中島の戦いで景虎が打撃を受けた間隙を縫って北関東に侵攻するなど徐々に領土を拡大していきます。

1564年には、安房の里見義弘との間で第2次国府台合戦を戦い、苦戦しつつも最終的には勝利を収めています。
以降、一進一退しつつも領国は広がり続け、最終的には北条氏最大の版図を気づくに至りました。

しかしながら、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打ち取られてから情勢は大きく移り変わっていきます。1568年には、武田信玄が駿河へ侵攻したことで三国同盟が破れ、妻黄梅院を離縁しています。夫婦の仲は良かったそうなので、苦渋の決断だったと思われます。

三国同盟が破たんしたことで、信玄という強敵と敵対することになった氏政は、1569年にそれまでの宿敵であった上杉謙信と同盟(相越同盟)することを決断します。これを受けて、信玄が小田原城に襲来するのですが、ここで氏康・氏政父子は再び籠城戦に活路を求め、再びこの危機をしのぎ切ります。但し、撤退する信玄を、弟の北条氏照とともに追撃しましたが、三増峠の戦いで返り討ちに合うというダメージも受けています。

なお、上杉謙信、武田信玄と戦国を代表する戦上手の攻撃を籠城によって退けたことで得た自信が、後の小田原攻めへの布石となっていきます。

1571年に父氏康が死去し、34歳にしてついに当主として独り立ちすることになりました。

3.武田との同盟


父親を失った氏政が最初に行ったことは、上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄と再度同盟を締結することでした。

北条家との同盟により背後の憂いを断った信玄は、宿願である上洛を目指して西上作戦に取り掛かります。真っ先に標的にされたのは徳川家康でした。後に天下を取る家康ですが、この頃は信長の同盟者として三河、遠江の地歩を固め始めたくらいの小大名に過ぎません。
当初は籠城する方針だったようですが、歴戦の名将である信玄の挑発に乗ってあっさり誘い出され、三方ヶ原の戦いで大敗を喫することとなります。この戦いにも氏政は援軍を出しています。

しかしながら、無念にも信玄は西上作戦の途上で病のためこの世を去ります。その後、宿命のライバルであった上杉謙信も1578年に49歳の若さで急死。一説には酒のせいだと言われています。

謙信には実子がいなかったので、姉の子である景勝と氏政の弟である景虎を養子に迎えていたのですが、この2人の間で御館の乱と呼ばれる後継者争いが勃発します。

当然、氏政は景虎を支援することになります。しかし、信玄の後を継いでいた武田勝頼に援軍を要請したところ、上杉家を北条家の血筋の者が継ぐと武田家の地位が下がることを恐れたことなどにより勝頼はあろうことか景勝と和睦してしまいました。これによって劣勢に立たされた景虎は最終的にこの争いに敗れ、自害することになります。

この結果、甲駿同盟は瓦解に至りました。代わって、氏政が同盟相手に選んだのは、武田と対立していた徳川家康です。その後、家康を通じて織田信長に臣従を申し出るなど、この頃の動きを見ていると氏政は後に言われるほど愚将という訳ではなさそうです。

4.隠居


1580年、43歳になった氏政は、父と同様に存命中に家督を嫡男の氏直に譲りますが、引き続き実権は掌握し続けます。この頃になると、畿内では信長が勢力を伸張させ、天下布武が現実のものとなってきます。

1582年には、その信長に攻められた武田勝頼が天目山で自害、これにより源氏の名門である甲斐武田氏はあっけなく滅亡してしまいます。氏政も上野に進出しますが、信長配下の滝川一益の攻勢を受けて撤退を余儀なくされます。

ちなみに、今年の大河ドラマ「真田丸」の始まりはこの武田滅亡の場面から始まります。主家の滅亡を受けて、配下にいた真田昌幸が独立することになるのですが、先々この昌幸が北条の運命を決定づける役割を担うことになります。

日の出の勢いで天下を目指していた信長ですが、この年に家臣の明智光秀の裏切りによって本能寺の変でその野望は潰えてしまいます。

これを機に、氏政は、氏直に官滝川一益を攻めさせ、神流川の戦いにおいて大勝利を収めました。余勢を駆った氏直は、信濃へ進出し、真田家などを取り込むことに成功しますが、同じく甲斐に進出した家康と敵対することになり、家康に通じた昌幸の活躍などによって苦境に立たされます。

ところが、氏政は、持ち前の外交力を発揮して再びこの危機を切り抜けることに成功しました。大河ドラマでも描かれていましたが、家康の娘である督姫を氏政の嫁に迎えることによりまさかの和解に持ち込んだのです。これには謀将として名をはせた昌幸もさぞかし驚いたことでしょうね。

この和解で、甲斐と信濃は徳川領、上野は北条領として分け合うことになり、氏政は、相模、伊豆、武蔵、下野、上野、下総の合計240万石の大大名となり、北条家の最大版図を得るに至ります。

5.秀吉への徹底抗戦から滅亡へ


信長の死後、天下の情勢はめまぐるしく移り変わり、山﨑の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉が、続く柴田勝家との争いも制して後継者としての地位を手中に収めます。

秀吉は朝廷から豊臣の姓を賜るとともに、関白にも就任し、四国の長宗我部氏、九州の島津氏を臣従させた後に北条にも上洛を求めてきました。しかし、氏政はこの上洛命令を拒否してしまいます。

理由は諸説ありますが、過去に小田原城に籠城して信玄や謙信といった難敵を撃退したことや信長に臣従してうまくいかなかった苦い経験、先に秀吉に臣従した家康や景勝よりも下の地位に置かれることへの抵抗があったことなどが挙げられます。

北条攻めのきっかけとなったのは、上野の沼田城を巡る真田昌幸との争いでした。この城は、武田滅亡後に真田が支配下に置いたのですが、先の北条と徳川の和解において北条領とされました。この真田との争いが秀吉の下に持ち込まれ有名な沼田裁定が行われることとなります。

この裁定の結果、沼田は北条に明け渡されることとなったのですが、真田領とされた名胡桃城まで北条の家臣が奪ってしまったことが、秀吉が大名同士の争いを禁じた惣無事令に反することとなり、北条攻めの決定打となりました。

1590年、秀吉は諸将に動員を発し、20万人を超える大軍をもって小田原城を取り囲みます。圧倒的な戦力の前に、関東の諸城は次々に落とされ、密かに頼りにしていた徳川家康や伊達政宗が当てにならないことも判明し、万策尽きた氏政は3か月の籠城戦ののちに降伏。
当初は助命するという話もあったようですが、結局、秀吉は氏政に対し、弟の氏照とともに自害を命じます。享年53歳でした。

辞世の句として、以下が伝わっています。
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」

嫡男の氏直は家康の娘婿ということもあって除名され高野山に追放処分となりました。秀吉としては、ゆくゆくは大名として復活させるつもりもあったようですが、残念ながら氏政は翌年に病死してしまい、ここに北条家の直系は断絶します。

但し、家系は氏政の弟の氏規が継ぎ、その子である氏盛が江戸時代に大阪狭山藩の大名として明治維新まで存続しています。

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