板部岡江雪斎~秀吉・家康も認めた安国時恵瓊・太原雪斎と並ぶ戦国の外交僧の生涯とは~

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今回取り上げるのは、小田原後北条家の外交僧として名を馳せた板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)です。

大河ドラマ「真田丸」では山西惇が演じ、真田信繁(幸村)と激論を戦わせるなど迫力ある演技を見せましたが、実際の江雪斎も優れた人物であったようです。

戦国時代には、今川義元の軍師を務めた太原雪斎、毛利の外交を担った安国寺恵瓊など、出家の身でありながら政治、外交、軍事に優れた能力を発揮した人物が多くいましたが、この江雪斎もその一人として挙げることができるのではないかと思います。

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1.北条家の外交僧として


板部岡江雪斎は、1537年に北条家家臣である田中康行の子として誕生します。元服して田中融成と名乗っていたようです。

北条家3代目の北条氏康に出仕し、特に内政、外交に手腕を発揮したと言われています。

その氏康は、1559年に隠居し、その後を4代目の北条氏政が継承します。当初は、引き続き氏康も実権を握る二頭体制だったようですが、1571年に氏康が死去すると、氏政が全権を持つようになります。

氏康は甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との間で三国同盟を結んでいましたが、義元が桶狭間で織田信長に討たれてからは今川氏は衰退し、その機に乗じた信玄が駿河に進行するに至ってこの同盟は解消されています。その際、氏康は信玄と敵対関係にあった越後の上杉謙信と同盟を締結していたのですが、氏政はまずこの同盟を破棄して改めて信玄と同盟し直しました。

信玄は、1572年に悲願の西上作戦の途上で死去するのですが、当初はその死は秘密にされており、公式には隠居して勝頼が後を継いだことにされました。
しかしながら、信玄死すの噂はあっという間に広がり、その真偽を確認するために、氏政は病気見舞いと称して江雪斎を甲斐に派遣しています。

この時、武田家側では信玄の弟である信廉を影武者に立てて対応したのですが、江雪斎はこれを本物と誤信してしまっています。

2.板部岡家の継承後


1578年、42歳となった江雪斎は、板部岡家を相続することになります。この年、上杉謙信が死去し、上杉氏では御館の乱と呼ばれる跡目争いがいずれも謙信が養子としていた景勝と景虎の間で発生します。

この時、氏政は実弟である景虎の支援に乗り出し、同盟者である武田勝頼に援軍を要請しています。しかしながら、勝頼は、上杉家を北条家の血縁者が継承することにより、自国の北と東に北条の勢力が及ぶことを懸念し、積極的に景虎を手助けせず、最終的には逆に景勝と和睦することになります。これによって景虎は孤立し、最後は自害することとなってしまいました。

一連の騒乱を受けて、氏政は勝頼との同盟を破棄することを決定します。これによって武田と敵対することになった北条は、敵の敵である織田信長に接近を図ります。この時、江雪斎は使者として織田方に赴き、同盟の取りまとめに奔走しています。

1580年に氏政は隠居し、家督を息子の氏直に譲りますが、以降も江雪斎の活躍は続きます。

3.家康を相手にして


1582年、信長は武田勝頼を滅亡に追いやるも、その直後に本能寺の変が勃発し、あっけなくその生涯を閉じることになります。これにより旧武田領である、甲斐、信濃、上野の一部に権力の空白が生まれ、これを巡って北条家は徳川家康と対立するようになります。

天正壬午の乱と呼ばれるこの騒乱は、当初は北条に有利に推移しますが、服属していた真田昌幸などの信濃の諸将が徳川方に乗り換えたことを契機として、次第に情勢が不利になっていきます。

そこで、江雪斎は徳川との間を調停すべく家康と折衝し、甲斐と信濃は徳川領、上野は北条領とすることで両者は和議を結ぶことになります。

和議の結果、家康は真田昌幸が支配していた上野の沼田城を北条に割譲することに同意しますが、これが後に北条家を滅亡に追いやる伏線となろうとはこの時誰も予期していなかったことでしょう。

4.秀吉を相手にして


家康から沼田城を北条に引き渡すよう求められた昌幸でしたが、頑としてこれを拒否したことでこの問題は泥沼化します。

この頃になると、既に豊臣秀吉が信長の後継者として天下人の地位を目前にしており、そのため沼田問題も秀吉が裁定することとなりました。北条氏直は、江雪斎を京に派遣して秀吉に一連の経緯を弁明させており、この時に江雪斎は秀吉にその能力高く評価され、茶を振る舞われたと言われています。

沼田裁定により一件落着したかに見えた秀吉との関係でしたが、城の引渡しを巡る悶着が発生したことで秀吉の小田原攻めを招くことになり、1590年に北条氏は滅亡することとなります。

北条家滅亡後、江雪斎は姓を岡野と改め、お伽衆として秀吉に仕えることになりました。よほど、その才能を気に入られていたのでしょうね。

1598年に秀吉が没すると、その後は旧知の家康に接近し、関ヶ原の戦いでは勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返りを決断させるなど、家康の天下取りに大きく貢献しています。

1609年に京都伏見で死去。享年73歳。子孫は旗本として存続しました。

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