武田家亡国の将・小山田信茂~真田昌幸の勧めを拒否し岩殿山城へ勝頼を導く

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小山田信茂は、武田勝頼を土壇場で裏切り滅亡に追いやった人物として悪名高いですが、実際には武田家の譜代の重臣として信玄の覇業を支えた有能な武将でした。

大河ドラマ「真田丸」では温水洋一さんがいまいちパッとしないキャラクターを演じていましたが、信玄の死後衰退していく主家を見ながら自分の行く末を深く悩んでいたのではないでしょうか。

そこで今回は、武田二十四将にも数えられるなど、勇猛な将としても知られた信茂の生涯に迫ってみたいと思います。

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1.武田家譜代の家に生まれて


小山田信茂は、1539年に小山田信有の次男として誕生しました。父の信有は、郡内地方の有力国主で、甲斐の騒乱を鎮めることに成功した武田信虎に仕えた人物で、その母親が武田一族だったことで家中でも大きな発言力を持っていました。

1541年、武田信虎は、息子の晴信(後の信玄)に国主の座を追われ、娘婿である駿河の今川義元の下に追放されます。これ以降、信有は晴信に仕え、その信濃進行を支えることとなります。

当初は順調に攻略が進んでいましたが、やがて晴信の前に村上義清という強敵が立ちはだかります。1550年、義清が籠る砥石城を攻めた晴信は、反撃にあって手痛い敗北を喫しました。この時、信有も小山田勢を率いて出陣していますが、自らも負傷するなど多くの配下を失っています。

1552年、信有が亡くなると、兄の信有が家督を相続します。ちなみに、信茂の祖父も信有という名であったことから、小山田家の家主は代々信有を名乗っていたようですね。区別するために、祖父は越中守信有、父は出羽守信有、兄は弥三郎信有と呼ばれています。

2.信玄の配下として


義清に苦戦しつつも、1555年ごろには、晴信は信濃のほとんどを平定することに成功しています。その信玄の下で、信茂が初陣を果たしたのは、1557年信茂が18歳の時に発生した、第一次川中島の戦いであったと言われていますが、発生年が合わないためはっきりしたところは不明です。とはいえ、この頃から信玄配下として活躍し始めたのは間違いなさそうです。

信玄の同盟相手であった今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、信玄は同盟を破棄し、駿河に侵攻を開始するのですが、この時も信茂は先陣を務めて功績をあげています。

また、これにより相模の北条氏との関係が悪化すると、信玄は小田原城攻めを決行します。この時も信茂は参陣し、信玄から直々に指示を受けるなど重要な役割を演じました。

そして、1565年に、兄の信有が若くしてこの世を去ったことにより、信玄の命を受けて小山田家の家督を相続します。

1572年に信玄が上洛を目指して西上作戦を開始すると、信茂もこれに従って出陣します。徳川家康を三方が原の戦いで一蹴するなど、戦況は順調に推移しましたが、信玄が病に倒れたことにより無念の撤退となります。

しかしながら、病状は回復せず、信州駒場まで軍を引いたところで危篤に陥った信玄は、四男の勝頼に後を託して無念の死を遂げました。

3.勝頼期の活動


信玄の死後、信茂は後を継いだ勝頼に仕えることになります。

その勝頼は、父である信玄の後を受け積極的に領国拡大を図ります。信玄が落とせなかった遠江の高天神城を落城させるなど、当初はその勢いはなかなかのものでした。

しかしながら、西から織田信長・徳川家康が攻勢に転じるようになり、次第に情勢は悪化していきます。三河の長篠城が家康の攻撃を受けるに至って、勝頼は信茂などを救援に派遣するものの、奥平氏の寝返りによって城は陥落してしまいます。

1575年、長篠城の奪還を図った勝頼は、軍を率いて反撃に転じようとします。しかし、攻城戦が長引くうちに、信長・家康の本体が到着し、主力を率いて決戦するか、撤退するかを迫られることになりました。

このとき、信茂は、馬場信春や山県昌景らとともに勝頼を諌めるも容れられず、結果的に武田軍は信玄の代から仕えた多くの有能な将を失うことになりました。信茂は、勝頼の近辺を警護し、撤退を図りこれを成功させています。

4.武田家滅亡


長篠の戦いで大敗を喫した勝頼は、態勢の立て直しを図ります。

これに水を差したのが、信玄の好敵手であった謙信が急死したことに端を発する上杉家の後継者争いでした。御館の乱と呼ばれるこの争いは、いずれも謙信の養子であった景勝と景虎の戦いでしたが、当初勝頼は景虎が同盟相手である北条家の出身であったことから彼を支援します。

しかしながら、景勝から和議が申し入れられ、その条件として一部領地の割譲が提案されると、これを受け入れて軍を引いてしまい、これによって北条との関係が悪化していきます。信茂は、景虎と景勝の調停に奔走していたようですが、結局景勝が争いに勝利し、景虎は自害することになりました。

これにより北条との同盟は破たんし、東にも敵を抱えることになった勝頼は上杉との間で甲越同盟を結びます。もっとも、家督争いを制したばかりの景勝に余力はなく、この同盟はあまり有効には機能しませんでした。

1581年、信濃の木曽義昌が離反して信長に下ります。これを受けて、西から織田・徳川、東から北条による武田攻めが開始され、武田方の諸城は組織だった抵抗もできずに次々に降伏していきます。

勝頼は、家臣の真田昌幸の進言に従って、上野の岩櫃城に行こうとしますが、これを信茂が制止して自らの居城である岩殿城に移ることを勧めます。勝頼はこれを受け入れて岩殿城へ急ぎますが、到着を目前にしたところで、突如として信茂が裏切り、城への道を閉ざしてしまいます。これにより進退窮まった勝頼は、武田家ゆかりの天目山に死地を求め、その地において自害して果てました。

この後、信茂は信長に下るのですが、その子の信忠から不義を咎められ処刑されるという運命を辿っています。

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