真田昌幸をしのぐ戦国一流の処世術・藤堂高虎の生涯

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名だたる大名以外にも戦国時代には隠れた人気を誇る武将も数多く存在しますが、藤堂高虎もその一人と言えるのではないでしょうか。

最近はゲームのキャラクターとしても人気を博しており、以前よりも知られるようになったようですが、その生涯について知ると、現代にも通じる一流の処世術を備えていたことが分かります。

大河ドラマ「真田丸」では主人公・真田信繁の父親である真田昌幸が、武田、北条、徳川、上杉、豊臣と主家を替えて生き残っていくさまが描かれていますが、この高虎も負けてはいません。

そこで今回はこの高虎の一生に迫ってみたいと思います。

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1.近江の土豪の子


藤堂高虎は、1556年に近江の藤堂村の土豪の子として生まれました。当時の近江は浅井長政が治めており、高虎も長政に仕官しています。

その長政は、義兄である織田信長が浅井家の同盟国である越前の朝倉義景を攻めたことで、信長と敵対し、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍がぶつかった1570年の姉川の戦いには、高虎は浅井方として出陣し、功を立てています。

このように、浅井家で頭角を現しつつあった高虎ですが、1573年、18歳の時に長政の下を去り、敵方の信長の配下である阿閉貞征に仕えました。この貞征も元浅井家臣で同様に信長に下った人物です。

しかしながら両者の間はうまくいかなかったようで、しばらくして、同じ織田方の磯野員昌に仕えるようになりました。

その後、1576年になると、員昌の下を去って、羽柴秀長に仕えています。秀長は言わずと知れた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟で、これによって高虎の未来は大きく開かれることになりました。

2.豊臣秀長の家臣として


秀長に仕官後、高虎は信長による安土城築城に参加する機会を得、この経験が後に築城の名手と呼ばれる築城術を会得する原体験となっています。

1577年、信長の命により秀吉が中国の毛利攻めに出立すると、高虎もこれに従って播磨に出陣します。現地では、地元の豪族を三方に付けることに成功するなどの功績をあげたようです。

1582年、信長が明智光秀の裏切りにより本能寺の変で倒れると、秀吉は中国から取って返し、山崎の戦いで光秀を撃破します。このときも、高虎は秀長軍の先方を務めて功を立てたとされています。

この後、清州会議を経て織田家の後継者争いが激化し、秀吉は織田家中のもう一人の実力者であった柴田勝家と賤ヶ岳で激突することになります。この戦いで、高虎は、柴田方の先鋒で猛将として名高かった佐久間盛政を敗走に追い込むなどの活躍を見せています。

勝家を破ったことで信長の後継者としての地位を確固たるものとした秀吉は、次に信長の同盟者であった徳川家康と対峙することになります。これは、秀吉と対立した織田信雄が家康と結んだことに起因しており、両者は小牧・長久手の戦いで戦火を交えることになりました。この時、高虎は伊勢の松ヶ島城攻めを行い、ここでも勲功を挙げています。

これ以降も秀吉の天下統一に向けた戦いに加わるほか、主君の秀長が紀伊、和泉、大和など110万石の大大名になると、高虎も1万石を拝領しています。

3.秀長の死後


秀長は、1591年、惜しまれつつこの世を去ります。後継ぎは、養子の秀保でしたが、高虎はそのまま家老として留まっています。

その秀保は、文禄の役の後に1594年に謎の死を遂げ、これにより高虎は高野山で出家することになりました。

しかし、秀吉は高虎の才能を放ってはおかず、すぐに呼び戻されて伊予に7万石を与えられ、大洲城を居城としてこの地の統治にあたることになりました。息をつく間もなく発生した慶長の役でも出陣し、朝鮮水軍を撃破するなどの活躍を見せました。

このように豊臣家において大きな役割をなした高虎ですが、1598年に秀吉が逝去すると、次第に家康に接近するようになります。浅井→織田→豊臣→徳川と、時の権力者をうまく見極める一流の処世術を持っていたことが分かりますね。

4.家康への接近


家康は、1600年に会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、会津征伐に出陣します。この時、高虎も家康方として随行しています。家康が不在となった機に乗じて、石田三成が兵を挙げたことで、豊臣恩顧の大名の多くは東軍・西軍のどちらに与するかで揺れ動きますが、高虎は一貫して家康に与しており、自らの信念の強さを感じさせます。

両軍が激突した関ヶ原の戦いでは、藤堂勢は西軍の大谷吉継隊と激闘を繰り広げます。この時、高虎は、小早川秀秋の裏切りに備えて吉継が配置していた脇坂、小川、朽木、赤座の諸隊を寝返らせることに成功しており、単に武力一辺倒ではない戦上手としての高虎の面目躍如となりました。

戦後は、これらの功績が認められ、伊予の今治に20万石が与えられて、今治城を築いています。外様の身でありながら、家康に重用された高虎は、1608年には伊賀と伊勢の一部に23万石を与えられ、伊勢の津藩主となっています。これには、大阪に健在であった豊臣秀頼の動向に目を光らせるという重要な役割があったのではないかと思われます。

その豊臣家に対し、家康は大阪冬の陣・夏の陣と二度にわたって戦いを仕掛け、これを滅亡に追いやります。当然ながら高虎も徳川方として参陣していますが、かつての主家に対して弓を向けることになった心中はいかばかりであったか思いやられます。

豊臣家の滅亡により天下に泰平が訪れると、高虎は32万石に加増され、その後も江戸幕府において重きをなすことになります。

1630年、75年の天寿を全うしました。

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