大名への返り咲きを目指し大坂に散った長宗我部盛親の生涯

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長宗我部盛親は、大阪の陣で豊臣方に参じた有力武将の中でも、後世の知名度こそ真田信繁(幸村)などに劣るものの、当時としてはかなりのネームバリューのある人物でした。

一時は四国平定をほぼ達成したこともある土佐の名門の長宗我部家の当主として関ヶ原の戦いで一敗地にまみれて改易の憂き目にあい、雪辱を期して豊臣方として臨んだ大坂の陣でも敗れた非業の人物ではありますが、徳川方を苦しめた武将として未だに語り継がれる存在となったのはせめてもの慰めではないでしょうか。

大河ドラマ「真田丸」では、阿南健治さんが演じることが決まっており、今後注目を集めることが予想されますが、一足先に今回はこの長宗我部盛親の生涯を見ていきたいと思います。

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1.土佐の姫若子の四男


長宗我部盛親は、1575年に、土佐の国主である長宗我部元親の四男として誕生しました。幼名は千熊丸。父親の元親は、若いころは姫若子と呼ばれてうつけ者扱いされていましたが、家督を継承するや瞬く間に土佐を皮切りに四国一円を平定するなど、知勇兼備の名将として知られています。

しかしながら、時すでに遅く、中央では織田信長の後を継いだ豊臣秀吉が圧倒的な力を持つようになっており、当初は敵対した元親も秀吉の四国攻めによって降伏することを余儀なくされています。

元親には信親という嫡男がおり、彼も優れた武将で将来を嘱望されていましたが、1587年に悲劇が起こります。この年、秀吉は島津攻めを号令し、中国・四国勢にその先鋒を命じます。これを受けて信親らは九州に上陸しますが、大将を務めた仙石秀久が功を焦って判断を誤ったことで戸次川の戦いで大敗を喫し、その最中に信親は戦死してしまいました。

2.家督継承


これによって、長宗我部家は後継者を失うこととなり、その後釜を巡って次男の香川親和や三男の津野親忠を推す派と盛親を推す派で家中が分断されることとなりました。最終的に元親は、2人の兄が養子に出していたこともあって、盛親を後継ぎとすることを決定するのですが、この騒動は家臣の処分など家中に暗い影を落とすことになりました。

盛親を後継者とした後の長宗我部家は、元親と盛親の二頭体制へと移行します。これは、まだ盛親が若かったこともありますが、先の騒動が完全には決着しておらず、家中が一致団結して盛親を支えていく状態ではなかったことも一因であるようです。

1590年には、秀吉の小田原攻めにも従軍し、功を挙げています。その後に発生した、文禄・慶長の役にも参陣し、朝鮮半島に渡って激戦を繰り広げました。

1598年に天下人秀吉がこの世を去ると、その翌年、後を負うように元親も亡くなります。これにより、盛親は正式に家督を継承し、長宗我部家の当主となりました。

3.関ヶ原の苦杯


秀吉の死後、盟友であった前田利家も後を負うようになくなるなど、天下の趨勢は確実に徳川家康に有利に動いていきました。

その中で、石田三成と家康の対立が激化していき、ついに1600年、両者は関ヶ原での一戦に及ぶことになります。

関ヶ原に先立って、家康は会津の上杉景勝を討伐すべく東上しますが、実はこの時、盛親は家康勢として従軍するつもりだったようです。しかしながら、その途中で五奉行でもある石田派の増田長盛に行く手を遮られ、やむなく西軍に加わることになりました。この長盛は、盛親の烏帽子親であり、盛という一字を諱として譲り受けた経緯もあって、盛親としてもその依頼を無下に断れなかったのではないかと思われます。

この後、盛親は、西軍の一員として、家康の重臣である鳥居元忠が守る伏見城を攻略し、関ヶ原の本戦でも一軍を率いて在陣しています。しかしながら、周知の通り結果は西軍の惨敗。盛親が陣を構えた栗原山は、毛利勢の南宮山の隣にあり、その前衛の吉川広家が家康と密約を結んで動かなかったことから、ともに足止めを食らって戦いには参戦できないまま敗れることとなりました。

何とか土佐に帰り着いた盛親は、旧知の間柄であった家康側近の井伊直政を通じて謝罪しますが、それに先立って兄の津野親忠を家臣の讒言によって殺害していたことが家康の勘気に触れ、最終的に改易されることとなってしまいました。

4.お家再興の夢


領地を失った盛親は、浪人となり、京都に滞在したと言われています。一説には寺子屋で教えていたとも言われていますが、一国の主だったころとは生活が一変したことは容易に想像できます。

浪人生活は10年超に及びますが、1614年、それまで小康状態を保っていた豊臣・徳川の関係が悪化し、戦いが避けられない情勢となります。

秀吉の遺児である豊臣秀頼は、豊臣恩顧の大名が充てにできないと知り、積極的に浪人を招聘するようになり、盛親も誘いを受けてお家再興の願いを掛けて大坂城に入ります。長宗我部の名前は知れ渡っており、浪人衆の中でも、真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登とともに、盛親は五人衆と呼ばれ主導的な役割を担うことになりました。もっとも、大坂冬の陣では、もっぱら籠城戦が展開されたこともあって、大きな戦果を挙げることなく講和することになります。

続く、夏の陣では、八尾・若江の戦いにおいて徳川方の歴戦の将である藤堂高虎勢と激突します。この戦いでは、先鋒を打ち破られるも、伏兵を用いて反撃に転じ、高虎自ら逃げ回らざるを得ないほど壊乱状態に追い込んでいます。しかしながら、友軍であった木村重成勢が撃破されたことで敗勢となり、続く天王寺の戦いにも敗れたことで豊臣家の命運が風前の灯となると、再起を期して逃亡を図ります。

盛親は、城からの脱出には成功するものの、すぐに徳川方に捕縛され、京都六条河原において処刑され無念の死を遂げることになりました。

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