日本一の兵(つわもの)・幸村こと真田信繁の生涯①~上田編

Sanada_Yukimura1.jpg

真田信繁は、古くから「幸村」の名で講談などを通じて多くの日本人に人気のあった戦国武将です。

戦国大名のように広大な領国を有したわけでもなく、歴史を動かすような大勝利を挙げた訳ではありませんが、戦国時代の終わりを彩る大坂の陣において劣勢の中、徳川勢に一泡吹かせたことで後世に語り継がれるようになりました。

時代劇でも多く取り上げられており、1985年にはNHK新大型時代劇「真田太平記」において草刈正雄さんが、2016年にはNHK大河ドラマ「真田丸」において堺雅人さんが迫真の演技を見せています。ちなみに、草刈さんは「真田丸」では信繁の父である真田昌幸役として出演しており、30年の時を超えて親子両方を演じたことになります。

人気ゆえにエピソードも豊富ですので、今回はこの真田信繁の生涯を何度かに分けて見ていきたいと思います。

スポンサード リンク



1.幼少期


真田信繁は、1567年(1570年とも)に甲斐武田氏の家臣であった真田昌幸の次男として誕生しました。幼名は弁丸、源二郎が通称でした。兄は、源三郎信幸(後に信之)です。なお、信繁の名は、信玄の弟であり名将の誉れが高かった武田信繁に因んだものとされています。

母親は昌幸の正室である山手殿で、一説には京都の公家の名門である菊亭晴季の娘とも言われていますが、そうであれば主家である武田晴信の正室である三条殿と同格付けということになるため、かなり信ぴょう性は低いようです。これ以外にも様々な見解があるようですが、未だにはっきりとしたことは分かっていません。

真田家は代々信濃小県(ちいさがた)の豪族であり、信繁の祖父である真田幸隆(一徳斎)の時に武田晴信(信玄)に仕えて重用されたことで、旧領を回復していました。

昌幸は、その幸隆の三男で、信綱と昌輝という2人の兄がいたため武藤家に養子に出され、武藤喜兵衛と名乗っていましたが、信玄に側近として仕え、その薫陶を存分に受けたようです。

しかし、その信玄が1572年に西上作戦の途上に死去し、子の勝頼が後を継ぐと武田氏の行く末に暗雲が立ち込めていきます。

☆真田信之の生涯はこちら

2.武田家滅亡


1575年に、勝頼は長篠の戦いにおいて、鉄砲隊を駆使する織田・徳川連合軍の前に惨敗を喫し、信玄以来の名だたる家臣を失ってしまいます。この戦いでは、昌幸の兄である信綱と昌輝も戦死してしまい、そのため昌幸が急遽真田氏に復姓して家督を継ぐことになりました。

その後、勝頼は、昌幸に命じて、本国である甲斐に新府城の築城を開始します。しかし、城の完成を待たずに、武田氏は信長の攻勢を受けて衰退の一途をたどり、ついに1582年に織田・徳川勢の本格的な侵攻を許すことになります。

きっかけは、親族衆でもあった木曽義昌が織田方に寝返ったことで、これを皮切りに離反者が相次ぎ、戦国最強とも言われた武田家の家臣団はあっけなく瓦解してしまいました。

勝頼は、完成前の新府城に火をつけて落ち延びることを選びます。この時、昌幸は城主を務めていた上野の岩櫃城に逃れるよう促しますが、重臣の小山田信茂は自身の岩殿城へ来るように諭します。

選択を迫られた勝頼は、最終的には譜代衆である信茂の献策を受け入れ、岩殿城へ急ぎますが、肝心の信茂が途中で寝返り、城への道をふさいでしまいます。
進退窮まった勝頼は、甲斐の天目山において迫る織田勢と最後の一戦を交え、妻子ともども自刃して果てました。

これにより、源氏の名門である甲斐武田氏は滅亡し、昌幸と信之・信繁兄弟も生き残りをかけて時代の波間を漂うことになりました。

☆小山田信茂の生涯はこちら
☆武田勝頼の生涯はこちら

3.織田家の人質に


昌幸は、武田氏の滅亡を受けて、信濃で自立することを余儀なくされるのですが、この時信長に臣従するという決断を下します。主家を滅ぼした相手に下るのは断腸の思いだったはずですが、生き残るための苦渋の策でした。

信長は重臣である滝川一益を関東管領として上野に配し、信繁はこの一益の下に人質として送られることとなりました。

これによって、一息つくことができるはずでしたが、1582年6月に本能寺の変が発生し、肝心の信長が横死してしまったことで、旧武田領は再び激震に見舞われます。

特に、信濃は北に上杉景勝、南に徳川家康、東に北条氏政・氏直と、いずれも大勢力が存在しており、織田家の勢力が衰えたのを機に支配権を巡って天正壬午の乱と呼ばれる熾烈な戦いが勃発しました。

まずは、北条勢が一益のいる上野に大挙して侵攻し、これを圧倒します。耐え切れなくなった一益は、信繁を連れて逃れるのですが、途中で木曽義昌に信繁の身柄を引き渡しました。その後、信繁は、紆余曲折を経て昌幸の下に戻っています。

北条勢は余勢を買って甲斐・信濃も窺うようになりますが、これを受けて昌幸は織田家を見限り北条方に鞍替えを図ります。ところが、北条が頼りないと見るや家康に乗り換えるなど、まさに「表裏卑怯の者」と呼ばれるのにふさわしい変わり身の早さでした。ちなみに、「卑怯」というのは知略にたけているといった意味で使われており、この言葉は昌幸の知略を称賛するものです。

☆北条氏政の生涯はこちら
☆上杉景勝の生涯はこちら

4.第一次上田合戦


徳川方として北条と一戦交えようと意気揚々としていた昌幸でしたが、こともあろうに家康と氏政との間に和議が結ばれたことで当てが外れます。

それだけでなく、家康は、講和の条件として、昌幸が獲得していた上野の沼田城を北条方の切り取り次第とすることを認め、これを受け入れるよう昌幸に迫ってきました。
そこで、昌幸は徳川に頼ることを諦め、残る上杉景勝に臣従することを決断します。これにより、信繁はまたも景勝の下へと人質として送られることとなりました。

昌幸離反の報を受け、家康は激怒し、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らに命じて7000の大軍で真田攻めを敢行します。

昌幸は、1200ほどの小勢を以て、本拠の上田城で徳川勢を迎え撃ち、わざと城の奥深くまで招き入れたところで反撃に転じ、敵が後退するのを見て、予め堰止めておいた神川の堰を切って水攻めにするなどしてこれをさんざんに打ち破ります。資料によると、反撃に転じるまで、昌幸は家臣と囲碁に興じていたようです。

この戦いで徳川勢は一説に1000以上の損害を被り、撤退することを余儀なくされました。しかし、依然として家康の勢力は大きく、再び徳川勢が襲来することを予期して真田家は更なる生き残り策を講じる必要がありました。

☆真田信繁の生涯~秀吉編~はこちら

スポンサード リンク




最後まで読んでいただきありがとうございます。はてブをしていただけると今後の励みになるので、ご協力いただけると嬉しいです。

この記事へのコメント

スポンサード リンク