日本一の兵(つわもの)・幸村こと真田信繁の生涯②~秀吉編

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前回に引き続き真田信繁の生涯について見ていきたいと思います。

前回は第一次上田合戦までについて見ましたが、この時期の信繁の動静は断片的にしか残っておらず、父親である昌幸の存在感の方が際立っていました。

NHK大河ドラマ「真田丸」でも、序盤から中盤までは昌幸役の草刈正雄さんの好演が注目され、主役であるはずの信繁がかすんでいたくらいなので、やはり信繁が注目されるのは最晩年の大坂の陣を待つ必要があるようです。

もっとも、それまで信繁が何もしていなかったわけではなく、豊臣政権下での活躍についての記録もわずからながら残されているようです。

そこで、今回は主に秀吉に仕えた時代にフォーカスを当てていきます。

☆真田信繁の1回目の記事はこちら

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1.秀吉への臣従


第一次上田合戦で徳川の大軍を退けた真田昌幸でしたが、依然として彼我の力の差は大きく状況を打開する必要がありました。

味方と頼んだ上杉景勝も、御館の乱と呼ばれる先代である謙信の後継者をめぐる激しい争いによって消耗しており、全面的なバックアップは期待できない状況の中で、昌幸が目を付けたのが信長の後継者として台頭してきた羽柴(豊臣)秀吉でした。

秀吉は、本能寺の変の直後に中国大返しを敢行して山崎の戦いで明智光秀を撃破し、信長の後継者を決めるために行われた清州会議でもその嫡孫である三法師の擁立に成功。その後、織田家随一の実力者であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ったことで、その地位を確固たるものにしつつありました。

家康とは、小牧・長久手において一戦を交えるなど当初は対立関係にありました。昌幸はここに目を付けて秀吉への接近を試み、これに服属することを決断します。

☆上杉景勝の生涯はこちら

2.またもや人質に


秀吉に臣従した昌幸ですが、自らは上洛せずに信繁を人質として差し出します。戦国武将の次男の定めとして家の存続のために人質として利用されるのは、信繁に限ったことではありませんが、ここまで何度も出されるのは珍しいケースかもしれません。

秀吉に臣従した真田家は、独立大名として扱われることになり、その人質である信繁も手荒な待遇を受けることはなかったようです。

しかし、秀吉は、一方で家康の取込みも着々と進めており、妹や母親を人質として差し出すことにより、ついに家康を上洛させ臣従させることに成功します。これにより、真田家と徳川家は、いずれも秀吉を支える大名家としての位置づけとなりました。

3.天下統一


家康を従えた秀吉は、四国の長宗我部元親、九州の島津義久・義弘兄弟を服属させたのちに、天下統一の総仕上げとして関東の北条氏政・氏直父子に臣従を迫ります。

当初は、家康の助言もあって、北条氏に上洛して臣従するように何度も促していたようですが、氏政が一向に応じないことで状況は悪化していきました。

この時、第一次上田合戦の原因にもなった沼田城を巡る真田と北条の因縁の争いが尾を引いており、秀吉はこれを調停することで北条を取り込もうと画策します。秀吉は、沼田裁定と呼ばれる決定を下し、沼田城を北条領とし、その近隣の名胡桃城は真田領として残すこととしました。

昌幸としては独力で獲得した沼田城を明け渡すことには忸怩たる思いがあったことは想像に難くありませんが、やむなくこれに応じます。しかし、結果的にはこの一件が北条攻めの決定打となることになります。

沼田城の引渡しに際して、北条の家臣が真田領であるはずの名胡桃城を攻めてこれを占領してしまったことで、私戦を禁じた秀吉の惣無事令を犯してしまったのです。これにより、ついに秀吉は北条討伐を決意します。

1590年、信繁は秀吉に従って小田原攻めに出陣し、石田三成の指揮の下で忍城攻めに加わったと言われています。結局、3か月に及ぶ攻城戦を経て氏政は降伏して切腹。同時期に奥州の伊達政宗も秀吉に臣従を誓ったことで、ここに天下統一が果たされることとなりました。

☆北条氏政の生涯はこちら

4.秀吉の馬廻衆


はっきりした時期は明らかではありませんが、信繁は秀吉の馬廻衆として取り立てられていたようです。秀吉は、才能豊かな若者を好んでいたようで、信繁もその目に留まったのではないかと推察されます。

これ以外に秀吉からの期待を示す出来事としては、秀吉の直臣であった大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎えていることや、1594年に、従五位下左衛門佐に叙任され、併せて豊臣の姓を名乗ることを許されていることなどが挙げられます。

天下を平定した秀吉でしたが、嫡子であった鶴松が幼くして亡くなったことで、姉の子である秀次に関白の地位を譲りました。しかし、1593年に後に秀頼となるお拾が生まれたことで、秀次は秀吉にとって微妙な存在となり、やがて謀反の疑いが持ちあがったことで高野山に追放されることとなります。結局、秀次は追放の身のまま自害することになり、豊臣家は秀吉後の支柱となるべき人物を失うこととなりました。

これに前後して、秀吉は文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵を敢行しており、信繁も昌幸や信幸とともに肥前の名古屋城に在陣していますが、この時期の信繁についてはこれ以外にあまり記録が残されていないようです。

1598年、秀吉がこの世を去ると、真田家は大きな岐路に立たされることとなります。

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