日本一の兵(つわもの)・幸村こと真田信繁の生涯③~関ヶ原編

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真田信繁の生涯の第三回です。

秀吉の死に伴って、真田家は再び時代の荒波に投げ出されることとなりました。これまで資料などで取り上げられることが少なかった信繁も、いよいよ本格的に時代の表舞台に登場する時が迫ってきます。

今回は、関ヶ原の戦いから九度山での配流生活までを見ていきたいと思います。

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1.犬伏の別れ


秀吉の死後、豊臣家は、徳川家康や前田利家らを中心とする五大老と、石田三成を中心とする五奉行による集団指導体制への移行を目指しました。

これは、実力者たちを互いに牽制させることを目的としたものでもありましたが、五大老の中でも抜きんでた力を持っていた家康を他の面々がいかに抑え込むことができるかがポイントでした。しかし、家康に対抗し得る勢力と人望を有していた利家が1599年に亡くなったことで、辛うじて保たれていたバランスが大きく狂うこととなります。

これに危機感を抱いた石田三成は、家康打倒を目指しますが、かねてより福島正則などの武断派の反感を買っていたために失脚し謹慎を余儀なくされます。1600年、家康は、五大老の一人である会津の上杉景勝に謀反の動きありとして、諸将を動員して討伐軍を起こすと、昌幸は信幸・信繁兄弟とともにこれに従軍して東上します。

その途上、下野まで来たところで、これまで逼塞していた三成が毛利輝元を総大将に担いで機内で挙兵したとの報に接し、真田家は今後の身の振り方を巡って大きな岐路に立たされることとなりました。犬伏の別れとして知られるこの出来事は、昌幸・信繁が石田方、信幸が徳川方につくことでどちらが勝っても真田家を存続させるという苦肉の策でしたが、信繁が西軍についた大谷吉継、信幸が家康側近の本多忠勝をそれぞれ岳父としていたことも決断の背景にあったものと思われます。

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2.第二次上田合戦


家康率いる東軍と袂を分かった昌幸と信繁は、本拠である上田城に帰還して戦支度を整えます。東軍は、家康が東海道を、その子の秀忠が中山道を、それぞれ軍勢を率いて西へと進みます。上田城は、秀忠勢の行程の途中に位置しており、これが初陣となる秀忠は手始めに真田を下して手柄を挙げようと38,000の軍勢をもって上田攻めを決行します。この中には、犬伏で分かれた信幸の姿もありました。

この時、信繁は、上田城の支城である戸石城を守っていましたが、徳川勢はその攻略を信幸に命じます。信幸が本当に臣従する意思があるのかを試すのと、裏切ることのないよう上田城から話すという狙いがあったようですが、信幸来襲の報に接した信繁は、同族の争いを避けるために城を放棄して上田へと撤退しています。

その後、秀忠勢は真田勢を城からおびき出すべく刈田を行うなど挑発をしかけますが、逆に城の近くまでおびき出されて手痛い反撃を食らったり、夜襲を受けて混乱に陥ったりと、攻城戦は遅々として進みませんでした。

そうこうしているうちに、西では家康率いる東軍と西軍との間の衝突が迫っており、あわてた家康は秀忠に使者を送って進軍を急ぐよう督促します。これにより、秀忠は上田攻略を断念し、軍勢をまとめて西へと急ぎますが、途中で悪天候にあうなど行軍は難を極め、結局、関ヶ原の戦いには間に合うことができませんでした。このことは家康から激しく叱責されることとなります。

しかしながら、家康は、秀忠勢を欠きながらも関ヶ原で西軍に対し大勝を収めており、さしもの昌幸も降伏を余儀なくされることになります。秀忠勢を翻弄した昌幸・信繁に対する家康の怒りは大きく、当初は死罪は避けられないと思われましたが、信幸とその岳父である本多忠勝の必死の助命嘆願により高野山へと配流されることとなりました。

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3.配流生活


上田を追われた昌幸・信繁父子は、高野山へと送られますが、やがてその麓にある九度山に居を構えることになります。当初は、そのうち赦免されるだろうという淡い期待もあったようで、信幸を通じて幕府への働きかけも行っていたようですが、家康、秀忠を変心させるには至らず、時だけが過ぎていきました。

配流生活は10年以上にも亘り、心身ともに疲弊した昌幸は、1611年に上田への帰還を待ちわびながらこの世を去ります。これを受けて、信繁は翌1612年に出家し、好白と名乗ることとなりました。

4.再び動乱の世へ


昌幸の死後も、幕府からの赦免は得られず、信繁も既に50歳を間近に迎えた頃、天下に再び動乱の影が忍び寄ります。1614年、関ヶ原の戦い以降、表向きは平穏が保たれていた豊臣家と徳川家の間に亀裂が走ります。きっかけは、秀吉の遺児である秀頼が一大事業として行った方広寺の改修において作られた鐘に「国家安康 君臣豊楽」という銘が記されていたことでした。この言葉が、豊臣家を称え、徳川家を呪うものであるということで両者の対立は決定的なものとなり、豊臣方は戦いに備えて恩顧の大名らに書状を送って味方するように呼びかけを始めました。

しかしながら、加藤清正は既にこの世になく、福島正則なども幕府に監視されて身動きできない中で積極的に豊臣家に味方しようという大名は一人も現れませんでした。そこで、豊臣方は、関ヶ原以降、主家を失って全国に散らばっていた浪人衆を招聘し始めます。

信繁も秀頼の要請を受けて大坂に参陣することを決意し、嫡男の幸昌(大助)らを伴い、監視の目を掻い潜ってひそかに九度山を抜け出して大坂城に入城します。大坂には、土佐の元大名の長宗我部盛親、黒田家旧臣の後藤基次(又兵衛)、宇喜多家旧臣の明石全登、秀吉直臣の毛利勝永などが集結しており、信繁は彼らとともに五人衆と呼ばれる主導的な役割を担うこととなりました。

☆加藤清正の生涯はこちら
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