日本一の兵(つわもの)・幸村こと真田信繁の生涯④~決戦編

Sanada_Yukimura1.jpg

いよいよ決戦の地、大坂城への入城を果たした信繁ですが、そこでは寄せ集めの浪人衆を束ねて徳川勢にぶつかるという困難なミッションが待ち構えていました。

名将であった父・昌幸が亡き今、これまでその陰に隠れて歴史の表舞台に立つことがあまりなかった信繁にとうとうスポットライトが当たるときがやってきます。

戦国最後の戦いにして、最大の一戦である大阪の陣において信繁の存在は伝説となります。

スポンサード リンク



1.真田丸


大坂城に入った信繁は、徳川勢の機先を制して、尾張まで進出した後に近江まで引いて瀬田の橋を落として迎撃態勢を取るという積極策を提言し、これには後藤基次(又兵衛)らの浪人衆も賛同します。

しかし、豊臣家を取り仕切る大野治長らは、天下の名城である大坂城に籠城するのが上策であるとして、この案は採用されることはありませんでした。

そこで、信繁は、自らの部隊の軍装を赤に統一し、士気を高めるとともに、大坂城の外郭に真田丸と呼ばれる出城を築きます。従来、この真田丸は、大坂城のもっとも防御が弱いところに作られたとされてきましたが、近年ではむしろ弱点から敵の目を逸らす目的でそこからずらして作られたという説が有力に唱えられています。

2.大坂冬の陣


豊臣方の動きに対し、家康は諸大名に号令して20万の軍勢を大坂に結集させます。真田丸には、前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が対峙しますが、家康は徒に攻め急ぐことなく、塹壕、土塁を整備するよう命じます。これに対し、真田勢は出城から鉄砲を撃ちかけるなど、盛んに挑発を行い、さらには城内で裏切り者が出たように装うことで巧みに徳川勢をひきつけて一斉に迎撃することで甚大な打撃を与えることに成功します。

真田丸の攻防戦は冬の陣での最大の戦いでしたが、これ以外でも豊臣方の戦意は高く、すぐには城は落ちませんでした。そこで、家康は、イギリスやオランダ製の大筒を使って本丸を砲撃したり、昼夜を問わず鬨の声を上げさせて心理的に疲弊させるなど様々な手段を講じ、敵の士気を挫こうとしました。

これによって、豊臣方も次第に疲労の色が濃くなり、秀頼の母である淀の方(淀君、茶々)の侍女が砲撃で死傷するなどしたこともあって両軍の間で和議が結ばれることとなりました。この時、和議の条件として、大坂城の二の丸と三の丸を埋め立てるということが取り決められました。

以前は、当初は外堀だけを埋め立てる約束であったものを徳川方が反故にして内堀まで埋め立ててしまったと言われていましたが、近年では当初から二の丸までの堀の埋め立てについては大坂方も同意していたという説が有力のようです。

堀の埋め立てと併せて、信繁が苦心して築いた真田丸も破却されることとなり、これにより天下の名城であった大坂城は裸同然となってしまいました。

3.再戦に向けて


講和により、ひと時の平穏が訪れたのも束の間、1615年の春になると幕府の京都所司代であった板倉勝重から家康に大坂方の不穏な動きが報告されるなど、にわかに騒がしくなっていきます。報告を受けて、家康は豊臣家に対し、大坂城から浪人衆を追放するか、秀頼に国替えに応じるかを迫りますが、この要求はどちらも当然ながら拒否されます。

これにより、再戦は避けられない情勢となり、家康は諸大名に号令を発して上方に軍勢を終結させます。既に大坂城の防御は失われていたことから、出陣に際して家康は「3日分の腰兵糧で十分」と述べたと伝わっています。

豊臣方では、改めて浪人の招聘を行うとともに、埋め立てられた堀を掘り起こそうと試みますが、十分に準備を整える時間はないままに幕府の大軍を迎え撃つことになったことから、信繁らを交えた軍議によって野戦により活路を見出すことに決します。これに前後して、それまで豊臣方に加わっていた織田信長の弟の織田有楽斎(長益)は城から退去しており、また形勢不利と見た浪人の中には抜け出すものも現れました。

対する家康は、側近の本田正信・信純などと軍議を行い、15万以上の軍勢を河内路と大和路の二方向から大阪に向けて進軍することとしました。

☆本多正信の生涯はこちら

4.大坂夏の陣~緒戦


迫る幕府軍に対し、豊臣方は積極果敢に打って出ます。まずは、大野治房が率いる部隊が大和に侵攻して郡山城を落城させ、余勢を駆って堺に攻撃を加えます。治房はさらに紀伊に攻め込みますが、同地を治める浅野長晟の軍勢と衝突し、塙団衛門直之が討ち死にするなど苦戦を強いられ大坂に引き返しました。

続いて、大和路から進軍してきた徳川勢に対し、大坂方は後藤又兵衛や薄田兼相らを前隊、信繁や毛利勝永らを後隊として、これを迎撃しようとします。道明寺の戦いと言われるこの一戦における大坂方の作戦は、数に勝る相手を隘路で待ち受けて逐次撃退するというものでしたが、先発した後藤勢が到着したときには、幕府勢が既に陣を敷いていており、濃霧などの影響で友軍の到着が遅れていたことから、又兵衛はこれを包囲しようとして先制攻撃に出ます。当初は優勢だった後藤勢でしたが、伊達政宗や松平忠明などの救援が次々に到着したことで次第に不利となり、ついに伊達勢の銃撃により又兵衛が打ち取られてしまいます。

続いて薄田兼相や明石全登率いる部隊も奮戦しますが、兼相は戦死し、残りは後方に撤退して後衛の毛利勝永や信繁の部隊と合流しました。

信繁らに率いられた大坂方は、又兵衛を打ち取って意気軒昂となった片倉重長率いる伊達勢と激突し、激しい銃撃戦を展開するなど激戦を演じます。両者の決着はつかず、両軍がにらみ合い戦線は膠着状態となりますが、河内路の八尾・若江の戦いにおいて大坂方が敗れたため、信繁のもとに撤退の命令が伝えられました。

いよいよ豊臣家と信繁にとって最後の決戦の時が迫りつつありました。

☆毛利勝永の生涯はこちら
☆明石全登の生涯はこちら

スポンサード リンク




最後まで読んでいただきありがとうございます。はてブをしていただけると今後の励みになるので、ご協力いただけると嬉しいです。
ブロトピ:ブログ更新しました

この記事へのコメント

スポンサード リンク