日本一の兵(つわもの)・幸村こと真田信繁の生涯⑤~天翔編

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大坂冬の陣後、頼みとする大坂城の総構えの要となる堀を埋め立てられた豊臣方は、続く夏の陣では野戦に活路を見出す以外に手立てがなくなります。

道明寺・誉田合戦で後藤又兵衛(基次)、八尾・若江合戦で木村重成といった名だたる将を失った豊臣方はいよいよ大坂城近辺に追い詰められますが、その中にあって信繁は徳川方に一矢を報いるべく、最後の一戦に向けて刃を研ぎ澄ませていました。

信繁と豊臣方に最期の刻が迫る中、戦国の幕を引く最後の一戦がいよいよ始まろうとしています。

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1.最後の布陣~天王寺口


最後の決戦は、1615年5月7日(旧暦)、舞台は大坂城南方の天王寺と岡山両口でした。
大坂方は、天王寺口に真田信繁・大助父子が茶臼山に陣を張り、その脇を大谷吉治らが固める態勢を敷きました。さらに、四天王寺の正面には、毛利勝永が、木村重成と後藤基次の残兵とともに着陣しました。

この吉治は、信繁の岳父である大谷吉継の息子で、関ヶ原で吉継が西軍として参戦して戦死したことで各地を転々としたところに大坂の陣が勃発して駆けつけた者の一人です。没落したものの豊臣恩顧の臣であり、信繁とも親交があったことから信頼されていたのではないかと思われます。

このほかにも、真田隊の与力には、福島正則の一族の福島正守(子や甥という説)や正鎮、石川数正の次男である康勝といった秀吉に近い武将や、少し変わったところでは浅井長政の三男とされる浅井長房(井頼)らが加わっています。

一方の幕府方は、先鋒を本多忠勝の次男である本多忠朝が務め、その後ろに二番手として榊原康政の次男である康勝や小笠原秀政・忠脩父子、三番手に酒井忠次の長男である家次がそれぞれ大将を務める部隊を配して向き合いました。その後方に控える徳川家康率いる本陣まで到達するには、いずれも徳川四天王を父に持つ、この3部隊を突破する必要があり、普通に考えると不可能とも思えるミッションでした。

☆毛利勝永の生涯はこちら

2.岡山口の布陣と顛末


岡山口の豊臣方は大野治房(治長の弟)が大将を務め、その背後に御宿政友らの部隊を配置しました。治長、治房兄弟は、淀殿や秀頼の乳母であった大蔵卿局の子供で、数少ない豊臣直参の武将でした。

また、政友は、武田信玄に仕えたこともある歴戦の雄で、その後は北条氏や家康の息子の結城秀康に仕えた後に、その子息である松平忠直との不和が原因で浪人となった人物です。夏の陣の開戦時に、豊臣方の浪人衆で武者と言える者として、家康が後藤又兵衛とともに政友の名を挙げたという逸話が残っていることからも、評価の高かったことが分かります。

これに対する幕府方は、第一陣が前田利常、片桐且元ら、第二陣に井伊直孝に加え、藤堂高虎や細川忠興といった歴戦の武将、その後方に将軍秀忠の本陣という構えを敷きました。

戦いは天王寺口で先に始まりましたが、その銃声を聞いて岡山口でもすぐに乱戦となりました。秀忠が本陣の進軍を命じたことで陣立てが乱れ、そこに治房隊が前田隊を突き崩して突撃したことで、第二陣、本陣を巻き込んで徳川方は混乱状態となりました。

一時は、秀忠自らが槍を手に取って戦おうとするほどまでに押し込まれたようですが、そばに控えていた謀将・本田正信や歴戦の将である立花宗茂の進言もあって踏みとどまることに成功し、それ以降は大兵力をもって反撃に転じます。治房隊も、当初の勢いが削がれ、期待されていた秀頼の出馬もかなわない状況となったことで、兵をまとめて大坂城へと撤退を余儀なくされました。

3.天王寺の決戦


天王寺口では、毛利勝永隊が本多隊の偵察に銃撃を仕掛けたことがきっかけとなって戦いが始まりました。この時の毛利隊の攻撃は凄まじく、瞬く間に本多隊の大将である忠朝を討ち取ると、救援に駆け付けた第二陣にも襲い掛かり、小笠原忠脩をも討ち取り、さらに第二陣の大将である榊原康勝や忠脩の父親である秀政に重傷を負わせて撃破します(両名は戦後に傷がもとで死去)。これにより、家康の本陣は無防備となります。

一方、信繁率いる真田隊は、松平忠直隊に突撃します。この時、信繁の狙いは家康の首一つであったようで、真田隊は松平隊を突き抜けて後方の家康本陣へ突撃します。既に毛利隊によって、混乱状態に陥っていた本陣では、防御態勢を整える間もなく真田隊に蹂躙され、家康自身も馬に乗って逃げ回ることとなり、思わず切腹を口走ったと言われています。またこの時、家康の馬印が倒されることとなるのですが、これは三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた以来のことでした。当時、真田家は武田家臣でしたので、まさに家康は生涯にわたり真田に苦しめられ続けたことになります。

信繁は家康を求めて突撃を繰り返しますが、圧倒的な兵力を前に遂に討ち取ることはできず、周囲から攻撃を受けて次第に手勢も失われていくこととなりました。精根尽きた信繁は、安居神社で休息を取っていたところを、越前松平家の家臣である西尾宗次に発見されて打ち取られました。一説には、自ら首を差し出したとも言われていますが、真偽のほどは定かではありません。

4.終局~その後


真田隊が敗れたことで、唯一戦いを継続していた毛利隊も戦線を支えきれなくなり、勝永は部隊をまとめて大坂城へと撤退しました。この敗戦を受けて、大坂方にもはや組織だって抵抗する戦力はなく、続々と城に向けて攻め寄せてくる徳川勢を前に遂に天守に火の手が上がります。

豊臣秀頼は、妻であり家康の孫でもある千姫を徳川方に脱出させたのち、城中の山里丸と呼ばれる一角において、淀殿や大野治長らとともに毛利勝永の介錯により自害して果てました。この時、信繁の嫡男である幸昌(大助)は若年のために周りから脱出を勧められましたが、断って殉死しています。

大谷吉継の娘で信繁の正室であった竹林院は、落城前に城を脱出することに成功しています。ほどなくして徳川方に捕えられることになりますが、家康から赦免され、出家して1649年に亡くなるまで終生を京都で過ごしました。また、次男の大八は捕まって殺されたとも言われていますが、実際は姉の阿梅とともに奥州の伊達家に匿われていたようです。阿梅は伊達家重臣である片倉景綱の嫡男である重長に嫁ぎ、大八も片倉守信と名乗って伊達家に仕えたようです。

また、信繁には豊臣秀次の娘で隆清院という側室がいましたが、彼女は大坂城には入らず難を逃れています。その娘は、出羽の岩城宣隆に嫁いで顕性院と呼ばれ、息子は秀次の旧姓である三好幸信を名乗って岩城氏に召し抱えられました。

これにより、信繁の死後も、その血筋は「日本一の兵」の名声とともに日本各地で受け継がれることとなりました。

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