文武に秀でた家康の腹心~赤備えで名を馳せた井伊直政の生涯

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徳川家康の覇業を支えた名臣として知られる酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4名は、徳川四天王として現在に至るまで語り継がれていますが、この中で唯一井伊直政だけは徳川(松平)譜代の家臣の家柄ではありません。にもかかわらず、4人の中でも随一ともいえる勲功を挙げ、家康から深く信頼されるに至るまでには、並外れた苦労があったものと思われます。

2017年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」では、この直政の養母である柴崎コウさん演じる井伊直虎が主人公として描かれていますが、幼少期の直政はこの直虎の庇護の下、井伊家の将来を担う者として日々研鑽を積んでいたようです。

今回は、後に彦根30万石の太守となる井伊家の礎を築いた直政の生涯を追ってみたいと思います。

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1.井伊谷の苦難


井伊直政は、井伊直親の長男として1561年に誕生しました。幼名は虎松。

井伊家は、遠江の国人領主であり、直親の従兄の直盛が当主を務め、国主である今川義元に仕えていたのですが、1560年に起きた桶狭間の戦いで義元が織田信長に討ちとられた際に直盛も戦死しており、当時は混乱期にありました。

更に悪いことは重なるもので、直政が生まれた翌年の1562年に直親は義元の後を継いだ氏真から謀反の疑いを掛けられて殺害されてしまいます。これにより後継者難に陥った井伊家では、窮余の策として直親の従妹を直虎と名乗らせて当主の座に据えました。

義元の死後、今川家は急速に衰え、その機に乗じてこれまで従属していた三河の松平元康(後の徳川家康)は信長の支援を得て独立を図ります。この間、直政は今川氏から何度も命を狙われており、難を避けるために三河で出家させられています。

2.家康との邂逅


隠忍自重の日々を送っていた直政に転機が訪れたのは、1574年のことでした。この年は父親の13回忌に当たり、直虎などや直政の母親などが相談して直政を家康に仕えさせようとしたのです。これがきっかけで家康に見出された直政は、復姓して井伊万千代と名乗り家康の小姓となります。

既に今川家は甲斐の武田信玄に領国を追われて衰退しており、その信玄も1572年に病没したことで、家康の同盟者である織田信長の勢力が急激に伸びていました。家康は、信長の力も借りて遠江の武田領を切り崩しにかかっており、その中で直政も数々の戦功を挙げています。

1582年、万千代は元服し直政と名を改めるとともに、家康の養女を妻に迎えました。この年、織田・徳川連合軍は遂に信玄の後を継いだ武田勝頼を自害に追いやり、これによって名門武田氏は滅亡します。信長は余勢を駆って、中国地方の毛利氏と交戦中の羽柴秀吉の援軍として自ら赴くことを決めますが、その途中、京都の本能寺において明智光秀の謀反にあい、落命することとなりました。

折しもこの時、直政は家康とともに大坂・堺に滞在しており、本能寺の変の一報を聞いた一行は急ぎ三河への帰国を図って有名な伊賀越えを決行します。命からがら三河に戻った家康は、休む間もなく、旧武田領である甲斐・信濃を巡って、上杉氏や北条氏と天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦を繰り広げます。直政も北条家の和解交渉などに大きな成果を上げ、結果として家康は武田の遺領の大部分とその旧臣を取り込むことに成功しました。

家康からその能力を高く評価されていた直政は、その傘下に武田旧臣の多くを配され、猛将として名を馳せた山県昌景の赤備えにならって全軍の軍装を朱色で統一します。

3.豊臣政権下


甲斐・信濃を抑えた家康でしたが、その間に中央では明智光秀を討ち果たした羽柴秀吉が、柴田勝家との争いを制して、信長の後継者としての地位を着々と固めつつありました。これに危機感を募らせた信長の次男である信雄が秀吉との対立を深めると、家康はこれに加担して、小牧・長久手の戦いが勃発します。

この戦いで、赤備えの井伊隊は大きな戦功を立てており、以降「井伊の赤備え」として多くの大名から恐れられる存在となっていきます。家康は、戦略を駆使して戦闘を有利に進めますが、これに対して秀吉は得意の政治力を用いて信雄を懐柔して和解に持ち込み、それによって家康から戦いの名分を奪うことに成功します。

その結果、家康も秀吉と和解するに至りますが、この戦いでの直政の働きは秀吉の目に留まったようで、後に徳川家臣でありながら豊臣姓を授けられたり、侍従に任じられるなど、厚遇しています。もっとも、こうした手厚い扱いにも拘らず、直政の家康への忠誠は微塵も揺るがなかったようです。

4.天下分け目


天下人となった秀吉が1598年に没すると、直政は直ちに豊臣方の武将を徳川親派に鞍替えさせるべく接触を図ります。特に、後の家康による天下取りに大きな影響を与えることになるのが、黒田官兵衛・長政父子と親密な関係を築いたことです。

1600年に家康が会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして討伐軍を起こすと、その虚を突いて石田三成らが挙兵します。
天下分け目の関ヶ原の戦いへと向かう一連の過程において、直政は豊臣恩顧の大名への切り崩し工作を激化させ、京極高次ら多くの有力者を取り込むことに成功しています。また、前述の黒田長政は、西軍の主力を構成する毛利隊の吉川広家や小早川隊の小早川秀秋らを調略する働きを見せており、結果的に直政の功績によって戦前に戦いの結果が決まっていたと言っても過言ではありません。

本戦でも赤備えの井伊隊は奮戦し、島津豊久を打ち取るなどの功を挙げますが、直政自身は敗走する島津義弘を急追する中で銃弾を浴びて重傷を負ってしまいます。それにもかかわらず、戦後は西軍についた毛利、島津といった諸大名との講和交渉や真田昌幸・信繁(幸村)父子の助命嘆願などに奔走しています。家康は、これまでの直政の功績を高く評価し、徳川直臣の中では最高の近江佐和山に18万石(後の彦根藩)を与えて西国の抑えとしました。

徳川政権の黎明期を支えた直政でしたが、関ヶ原で負った傷が悪化したことにより、1602年に惜しまれつつ世を去りました。直政が礎を築いた彦根藩は幕末まで存続し、大老・井伊直弼を輩出するなど直政の遺志を継いで江戸幕府を支え続けました。

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