徳川四天王のひとり・榊原康政の生涯

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徳川家康の側近として名高い徳川四天王ですが、時代劇やゲームなどで取り上げられることが多い本多忠勝や井伊直政に比べて、残りの2名の知名度はやや低いように思います。

このうちの一人、榊原康政も実績では引けを取らない有能な武将であったとされており、三河時代からの家康を支えた最古参の直臣でもあります(残る一人は酒井忠次)。

そこで今回は、この康政の生涯について見ていきたいと思います。

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1.家康の小姓として


榊原康政は、1548年に榊原長政の次男として三河に誕生しています。幼くして勉学に励み、その才能を知った家康によって、13歳の時に小姓として召し抱えられています。同年齢の本多忠勝も幼くして家康に仕えていることから、二人は互いに切磋琢磨して徳川家(当時は松平家)のために力を尽くしたようです。

ところで、この1560年は家康にとって後の飛躍のきっかけとなる重要な出来事が起きた年でもありました。当時、三河を支配していたのは駿河の今川義元でしたが、有名な桶狭間の戦いにおいて彼が新興の織田信長に討たれたのがちょうどこの年です。

義元の死を契機として家康は今川家からの独立を図るのですが、1564年に三河で大規模な一向一揆が発生したことで窮地に陥ります。家臣の多くが一揆方に加わった中で、直政は忠勝らとともに家康を支え続け、彼らのサポートを得て家康は一揆を平定することに成功しています。

これらの功績が認められ、1566年に元服した際に、家康から、当時の名前である松平元康の「康」の字を与えられ、これ以降、康政と名乗るようになります。

2.信長時代の活躍


折しも中央では桶狭間の戦いに勝利した織田信長が天下布武を旗印に領国拡大を進めており、その同盟者として家康も各地を転戦することになります。

康政は、家康から旗本先手役に任ぜられ、主要な戦いのほとんどで目立った活躍を見せています。1570年には、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の間で姉川の戦いが発生しますが、徳川勢は数に勝る朝倉勢に対して劣勢を強いられるも、側面から康政が攻撃を加えたことで不意打ちに成功し、勝利を挙げることができました。

また、1572年の三方ヶ原の戦いでは、名将・武田信玄が率いる甲州勢を前に味方が総崩れになる中、敗残の兵を集めて奇襲を仕掛けるといった功績も残しています。

1582年に本能寺の変が勃発し、信長が明智光秀によって討たれると、当時堺に滞在中であった家康一行は窮地に陥ります。当然ながら康政も一緒にいましたが、有名な伊賀越えに同行し、最後まで家康の身を守って無事に帰国に導きました。

3.秀吉時代の活躍


信長の死後、羽柴秀吉が後継者の地位を固めると、それを良しとしない信長の次男・織田信雄との亀裂が深まり、家康は信雄を支援して秀吉と対立するようになります。この時、康政は、秀吉が主家である織田家を乗っ取ったことを批判して回り、これによって秀吉から懸賞金を掛けられています。

両者が激突した小牧・長久手の戦いでは、功にあせる秀吉方の森長可や池田恒興らの別働隊を急襲して撃破し、両者を打ち取るなど活躍し、戦後になるとこれを見た秀吉から激賞されて先の批判の件を許されています。

戦いは局地的に家康が勝利したものの、彼我の戦力差は大きく、また対立のきっかけであった織田信雄が秀吉と和議を結んだことから、家康としても戦いの理由を失い講和することとなりました。

1590年に秀吉が天下統一の総仕上げとして、後北条氏が籠る小田原城攻めを行うと、康政も家康とともに従軍し、徳川勢の先鋒を務めています。北条氏が降伏すると、秀吉は家康を国替えし、北条氏の旧領を家康に与えるのですが、その際、家康は康政を上野の館林城主とし10万石の大名としています。譜代の家臣としては、井伊直政に次ぐ2番目の石高(本多忠勝も同様)であり、家康がいかに高く評価していたかが分かります。

4.江戸開府に向けて


秀吉が天下を統一した後、康政は、家康の後継者である秀忠を補佐する立場となります。
1598年に秀吉がこの世を去ると、家康と石田三成らとの間で対立が深まり、1600年に両者は関ヶ原で対峙することになるのですが、この時、康政は中山道を進軍する秀忠軍の軍監として月従っています。

秀忠軍は、途中、真田昌幸・信繁父子が籠る上田城を攻めあぐんで、関ヶ原の本戦に間に合わなかったと言われていますが、これには家康からの進軍要請が荒天のために遅れたことや、その要請を受けて関ヶ原に急いだものの、これまた悪天候に阻まれたなど、様々な要因が重なった結果であったようです。

もっとも、遅参した事実は間違いがなく、このことで秀忠は家康から叱責を受けたようですが、この時、康政が間に入ってとりなしたことで勘気が解け、秀忠から大いに感謝されました。

関ヶ原の戦いの後は、老中となるも大きな戦いがなくなったこともあり、政治面では重用されることがなくなっていきます。武断派であることを自認して、自ら身を引いたともいわれています。

1606年、領国の館林で死去。享年59歳でした。

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