雷神・戸次鑑連こと立花道雪の大友家三宿老としての生涯

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戦国時代後期の九州地方は、豊後の大友氏、肥後の龍造寺氏、薩摩の島津氏の三強がしのぎを削る状況が長らく続いていました。肥後や薩摩が背後を海に守られているのに対し、豊後は海の向こうに中国地方を制した毛利氏が控えており、ややもすれば挟撃されかねない地理上のディスアドバンテージを抱えており、領地を守るためにより外交的な手腕が求められていました。

その大友氏にあって、知勇兼備の名将として知られたのが戸次鑑連です。一般には立花道雪という名前の方が知れ渡っていますが、道雪という号は用いたものの、本人が立花姓を名乗ったという記録はなく、後からそう呼ばれるようになったようです。

島津氏に押されて衰退しつつある主家を最期まで支え続けた鑑連は、今なお武士の鑑としての評価が高く、雷神の通称もあり九州の武将の中でも根強い人気のある人物となっています。
そこで、今回はこの鑑連の生涯を追ってみたいと思います。

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1.大友氏庶流・戸次氏の次男坊


鑑連は、1513年に戸次親家の次男として豊後に誕生しました。幼名は八幡丸といい、兄が夭逝したことから、次男でありながら後継ぎとなりました。

早くに母親を亡くし、父親の親家も病気がちであったことから、継母によって育てられたということです。この辺りは、叔母である井伊直虎の薫陶を受けた井伊直政に似た境遇ですね。

初陣は、元服前の14歳のときで、豊前の大内領を攻めて見事勝利を収めています。この時から既に猛将の片鱗を見せていたようで、兵力で勝る敵を相手に奮闘した記録が残されています。

1526年に父が死去したことにより、元服とともに家督を継承して大友義鑑に仕え、後にその偏諱を受けて鑑連と名乗るようになりました。

2.二階崩れの変


家督を継いだ鑑連は、1535年の肥後国人の反乱や1546年の秋月文種の反乱などに出陣し、これらをたちまち平定するなど、主に軍事面で大きな功績を上げています。

鑑連らの奮闘もあり、相次ぐ反乱を抑えた大友氏でしたが、1550年に主君の義鑑が嫡男である義鎮を廃嫡しようとしたことで混乱が生じます。

事前にこの動きを察知した義鎮派の家臣達は、機先を制する形で義鑑を襲撃し、この時の傷がもとで義鑑は間もなく死去してしまいます。

この二階崩れの変と呼ばれる後継者争いにおいて、鑑連は義鎮を支持し、その家督継承に尽力しました。これにより、義鎮の信を得ることとなり、以降大友氏の重臣として益々重要な役割を担うようになります。

1553年には、弟の子である鎮連を養子にもらい、家督を譲って隠居していますが、その後も活発に軍事行動を展開するなど現役を引いた訳ではないようです。

3.諸勢力との争い


主家である大友氏は、長年にわたって中国地方に勢力を張る大内氏と敵対関係にありましたが、その大内義隆が重臣である陶晴賢の謀反にあって非業の死を遂げると、大内氏は急速に勢力を失い、代わって厳島の戦いで晴賢を討つことに成功した安芸の毛利元就が中国地方で勢力を拡大し九州北部へも進出してきます。

1557年には以前にも反乱を起こした筑前の秋月文種が毛利氏と通じたことが露見し、鑑連はこれを攻めて自害に追い込みました。また、義鎮は、弟を大内家に送り込み大内義長として大内領の取り込みを図りますが、これはうまくいかず、結果的に義長は元就によって討たれています。

その後も鑑連は毛利氏との戦いにおいて主力を担い、九州の旧大内領の取り込みに貢献しました。
1562年に義鎮が出家して宗麟と号すると、鑑連もこれに倣って道雪と号するようになります。

1567年には、先に討伐した秋月文種の子を擁する残党が毛利の支援を受けて筑前で決起し、重要拠点の立花山城を守る立花鑑載も毛利に通じるなど、筑前戦線は重大な危機を迎えます。この時も、道雪は立花山城に猛烈な攻撃を加えて落城させるなど、筑前の反大友勢の一掃に成功しています。

これ以降も毛利や龍造寺との一進一退の戦いが続きますが、宗麟が大内氏の一族である輝弘を旧領である周防に送り込み再興の動きを支援したことで、毛利氏はその鎮圧に追われることとなり、折しも同じタイミングで山陰では尼子氏が再興に向けて活動していたこともあって九州から撤退せざるを得なくなります。これにより、長らく続いた毛利との戦いは終わりを迎え、大友氏は龍造寺、島津との戦いに注力することができるようになりました。

4.大友の柱石


道雪の長年の功績に報い、宗麟は先に落とした立花山城を与えました。1575年には、宗麟からの命令に反する形で、一人娘の誾千代に家督を譲り、その後に高橋紹運の子である統虎(後の立花宗茂)を婿養子に迎えて家督を継承させています。

1578年、宗麟は日向に勢力を伸ばしてきた島津の討伐を計画します。道雪はこれに反対しますが、それを押し切って宗麟は大軍を派遣し、当初は兵力差もあって戦況を優位に進めました。しかしながら、耳川の戦いにおいて、島津の巧みな戦略の前に大敗を喫し、これによって多くの有能な家臣を失うことになります。これにより、大友氏の退潮は決定的となり、以降は島津と龍造寺の攻勢を前に守勢に立たざるを得なくなります。

1580年には龍造寺隆信が筑前に侵攻してきますが、立花山城を守る道雪は、一部の領地を割譲することでうまく和議に持ち込むことに成功しました。

しかし、その隆信が1584年に沖田畷の戦いで島津氏に大敗して討ち取られると、捲土重来を期して大友勢は龍造寺氏と熾烈な戦いを続けることとなります。その過程で、すでに70歳を超えていた道雪は寡兵をもって何度も敵に対して勝利を収めるなど、猛将の名に違わぬ働きを見せますが、1585年に陣中にて病を得ます。

味方の必死の平癒の願いもむなしく、同年、道雪はその生涯を閉じました。享年73。
道雪を失った宗麟は、島津氏の攻勢を留めることができず、最後は豊臣秀吉の救済を仰ぐことになります。秀吉の九州侵攻によって窮地を脱した宗麟でしたが、その後まもなくして病死することになります。後を継いだ義統には豊後一国が保証されましたものの、その後秀吉の怒りをかって改易となり、ここに名門・大友氏は滅亡することとなりました。

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