後北条氏5代の柱石・北条幻庵(長綱)の90年を超える生涯

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後北条氏と言えば戦国時代に100年以上にわたって関東に君臨した大名であり、氏政・氏直父子が豊臣秀吉の小田原攻めにあって滅亡の憂き目を見たことにより天下が統一された(やや不正確ですが)ということで一般にも知られた存在です。

初代の早雲にはじまり、2代目・氏綱、3代目・氏康といずれも名将として知られた君主を輩出したことでも名高く、川越夜戦などで活躍した八幡太郎こと北条氏綱など親族衆にも多くの有能な武将を抱えていました。

そのような後北条氏にあって、ひときわ異彩を放っているのが、幻庵こと北条長綱です。今回は、戦国屈指の長寿の人物でもある彼の一生を負ってみたいと思います。

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1.北条早雲の四男として


北条長綱は、1493年に北条早雲の四男として誕生しました。幼名は菊寿丸といい、幼くして箱根権現社の別当寺金剛王院に入りました。

父親の早雲は、伊勢新九郎盛時という名で、戦国時代の下剋上を体現する人物として知られており、かつては浪人の身から一国の主にのし上がったと考えられていましたが、実際は幕臣の中でもそれなりの地位にあったようです。

長綱が生まれた頃、早雲は伊豆に勢力を築いて勢力拡大を図っている最中であり、箱根権現社へ長綱を入れたのも、関東の武士の信仰を集める同社の影響力を重視してのことだと思われます。

2.兄・氏綱の支えとして


1519年に早雲が亡くなると、長綱の兄である氏綱が2代目当主となり、引き続き勢力拡大を図ります。

長綱は引き続き箱根権現にいて、氏綱の再造営プロジェクトを支えるなど、裏方から北条家を支えるようになります。また、一時は近江の三井寺にも籍を置いていたようで、その後再び箱根に戻って第40代目の別当に就任しました。

実は、氏綱が家督を継承するまでは家名は伊勢のままで、1523年ごろにこれを北条に改めたことにより正式に後北条氏が誕生したことになります。従って、実際には早雲が北条氏を名乗ることはありませんでした。

氏綱の代には、伊豆に加えて相模の支配を着実に固め、堅城として名高い小田原城を本拠地にさらには武蔵に進出して関東管領である上杉氏と激しく争うようになります。

3.北条家の重臣として


1541年に氏綱が死去し、家督がその子の氏康に受け継がれると、長綱の存在感は益々大きくなります。

1542年に甥にあたる北条為昌がこの世を去ると、その配下にあった三浦衆と小机衆を率いることとなり、早雲の代からの長老として家中随一の所領を有することとなります。

僧籍にあったためにイメージしにくいのですが、長綱は武芸にも秀でていたようで、実際に甲斐の武田信虎(信玄の父)や武蔵の上杉朝興との戦いなどで武功を挙げたという記録も残っています。

1560年、すでに60歳を超えていた長綱は、長男が夭逝していたため、次男の綱重に家督を譲ります。しかし、1569年に起きた武田信玄との戦いで、綱重だけでなく三男も戦死してしまったことから、氏康の七男である三郎を養子に迎えて隠居することとなりました。この頃、長綱は幻庵という号を用い始めています。ちなみに、この三郎は、後に上杉謙信の養子に迎えられて長尾景虎を名乗り、その後継争いである御館の乱に敗れて自害するという悲劇を味わうことになります。

4.生年・没年の謎


3代目氏康は1571年に亡くなりますが、その後も幻庵は4代目・氏政、5代目・氏直に仕えて主家を支え続けます。

1589年、97歳になった幻庵は遂にこの世を去りますが、それからわずか数か月後に北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされることとなります。北条5代に仕え、その滅亡を見ることなく亡くなった幻庵はある意味で幸運だったのかもしれませんが、3人の息子に先立たれるなどの悲劇にも見舞われており、決して順風満帆な人生であったわけではありません。

ところで、97歳という寿命は、現在でもかなりの長寿ですが、これについては諸説あり、実際の生年はもっと遅く1501年ごろ、没年も1584、5年ごろと早いのではないかという説も唱えられています。

仮にそうだったとしても、80歳以上だったことになりますので、当時としては異例の長寿を保った人物であることは間違いありません。

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