応仁の乱・東軍の総大将 細川勝元はなぜ歴史を作った名将と言えるのか

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このところ俄かに応仁の乱がクローズアップされていますが、戦国時代へと至るきっかけとなり、複雑に人間関係が入り組んだこの乱は戦国以上に面白くようやく陽の目を見たかという思いです。

京都では、「先の戦」といえば第二次世界大戦ではなく、応仁の乱のことを指すというのは有名な話ですが、それほどまでにこの乱は後の世に大きな影響を及ぼすものであったと言うことができるでしょう。

応仁の乱では、全国の守護大名が東軍と西軍の2つの陣営に分かれて覇権を争いましたが、総帥として両軍を率いたのが細川勝元と山名持豊(宗全)という二大大名です。

そこで、今回は2人のうち細川勝元の生涯に焦点を当ててみていきたいと思います。

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1.細川京兆家の嫡男


細川勝元は、1430年に細川持之の嫡男として誕生しました。聡明丸という幼名が与えられたことを見ても分かる通り、将来を嘱望される存在であったようです。

父親である持之は、「万人恐怖」と言われるほどの専制政治を敷いたことで有名な室町幕府第6代将軍の足利義教に管領として仕え、その義教が嘉吉の乱で家臣の赤松満祐に討たれると、山名持豊などと協力してこれを討伐するなどの実績を上げた人物です。

その持之は1442年にこの世を去り、勝元が家督を継承することとなりました。勝元が継いだ細川家は、源氏の名門である足利家から分かれた血筋で、なかでも京兆家と言われる家系は代々室町幕府の管領職を務める重要な家柄です。この細川京兆家を継いだとき、勝元はわずか13歳という若さでした。

2.政争の日々


応仁の乱のイメージが強いため、勝元と山名持豊は犬猿の仲であったと思われがちですが、当初は両者の関係はそれほど悪くありませんでした。

三管領と言わるように、室町幕府の管領職は主に細川、斯波、畠山の三氏によって交替で務められていましたが、このうち勝元の政敵となったのは畠山持国です。この持国に対抗するために、大きな勢力を有していた持豊を敵に回すようなことはできませんでした。そこで、勝元は持豊の養女を妻に迎えることにより、姻戚関係を結ぶことに成功しています。

勝元と持国は、畠山氏の当主の座や、小笠原、富樫といった大名家の主導権争いを巡って対立を繰り広げ、各地で戦闘が勃発します。これ以外にも勝元が関与したと言われる政争は数多く存在しており、政権の中枢にあって謀略に明け暮れる日々を送っていたようです。

勝元と争った持国ですが、自身が属する畠山氏でも家督争いが勃発します。持国はその子である義就を推したのですが、勝元は持豊とともに持国の甥である弥三郎を担いで義就を追放することに成功しています。しかし、その後、嘉吉の乱で討伐された赤松家の再興を図ろうとした将軍義政とこれに反対する持豊との関係がぎくしゃくするなどの混乱がある中で、義就が勢力を盛り返して義政から畠山氏の当主として認められることとなります。

事態はこれで収まらず、勝元は投手争いに敗れた弥三郎への支援を続け、その没後は弟である政長を立てて畠山氏への介入を継続します。その結果、義就が義政の不興を買って没落したこともあり、政長は当主の地位を得ることとなり同時に幕府の管領にも就任することとなりました。

3.山名宗全との対立


この頃、持豊(出家して宗全と号する)は急速に勢力を拡大しており、最終的には全国の6分の1の守護職を務めるということで「六分の一殿」と呼ばれるほどの権勢を誇るようになっていました。このため、勝元は宗全への警戒を深めるようになり、斯波氏の家督問題や赤松氏の再興問題を巡って両者は次第に対立するようになります。

また、勝元自身も後継問題を抱えており、当初は嫡子がいなかったことから宗全の子である豊久を養子として迎えていたものの、実子である政元が生まれたことからこれを廃嫡したことで、宗全との関係が悪化していきました。

さらに事態を複雑にしたのが、将軍義政の後継争いです。勝元と同じく、義政も当初子がいなかったために弟である義視を後継候補としていましたが、妻である日野富子との間に義尚が誕生したことで一部幕臣がこれを担ぐ事態が勃発しました。義視を支援していた勝元は当然ながら義尚後継に反対し、この時は宗全もこれを支援しています。

これで政変は決着するかに見えましたが、この混乱に乗じて宗全が失脚していた畠山義就を復帰させて政長から管領職を奪い、自らが支援する斯波義廉にこれを継がせることなどをしたことから、勝元との関係が決定的に悪化することとなりました。

4.応仁の乱の経過


乱の始まりは、1467年に畠山義就と政長の軍が京都の上御霊神社で衝突したことがきっかけとなりました。宗全は天皇や上皇を取り込んで義就を支援し、この時は政長が敗退しています。

もっとも、政長を支援する勝元もすぐさま反撃に転じており、将軍義政を奉じて宗全に対抗しています。この頃から勝元方を東軍、宗全方を西軍と呼ばれるようになりました。ちなみに、京都の西陣という地名はこの時に西軍が本陣を置いたことに由来すると言われています。なお、東陣というのも当時はあったようですが、現在は地名としては残っていません。

当初は義視を支援していた勝元でしたが、やがて日野富子の要請を受けて義尚を支持するようなるなど、戦いは将軍家を巻き込んで全国へと波及していきます。

応仁の乱そのものは11年に渡って続きますが、1473年に宗全が死去すると、勝元もその後を追うように同年に亡くなります。44年の生涯でした。

この乱の結果、京都は荒廃し、多くの公家が地方に疎開したことで、各地に小京都と呼ばれる都市が誕生するなど文化面でも大きな影響がありました。また、守護大名の力が衰退し、各地に後に戦国大名となる勢力が出現していきます。信長・秀吉・家康といった戦国の英雄へと至る時代を切り開いたという点で、勝元の果たした役割は大きかったと言えるのではないでしょうか。

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