今川義元の母、氏真の祖母~尼御台こと寿桂尼の女大名としての生涯

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2017年のNHK大河ドラマ「女城主・直虎」はその前年の「真田丸」が非常に高評価だったこともあり、視聴率が危ぶまれていましたが、蓋を開けてみると優れた脚本の下で個性派ぞろいの俳優陣が名演技を繰り広げており、視聴者を惹きつけるのに十分な内容となっています。

視聴率こそ「真田丸」には及びませんが、主人公が井伊直虎という知名度が非常に低い人物であることを考慮すれば、よく健闘しているのではないかと思われます。このドラマの中で、主人公である直虎の前に立ちふさがる存在として重要な位置を占めているのが浅岡ルリ子さん演じる「寿桂尼」(じゅけいに)です。

駿河の大大名であった今川義元の母として知られた人物ですが、その義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ちとられたことで、思いがけず今川家を引っ張っていかざるを得ない地位となり、すぐれた政略を駆使してその存命中は武田氏や北条氏といった大勢力から家を守り抜きました。そこで、今回は、この寿桂尼の数奇な運命について見ていくこととします。

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1.藤原北家の娘として


寿桂尼の生年は明らかになっていませんが、没年から推測するに1500年より少し前ではないかと思われます。父親は、権大納言を務めていた中御門宣胤で、中御門家は藤原北家の血を引く公家の名家でした。

このため、幼い頃の寿桂尼は、京の都にあって雅な空気の中で生活を送っていたことでしょう。もっとも、すでにその頃には応仁の乱が集結して何年もたっており、都と言っても至る所が荒廃していたことも事実です。

少し予断となりますが、寿桂尼を輩出した中御門家は、その後も戦国、江戸の世を経て命脈を保ち、明治期には伯爵として華族に列せられています。

2.今川氏親の妻・尼御台


寿桂尼の運命が大きく変わったのは、1508年に駿河の大名であった今川氏親への輿入れが決まったことです。武家が箔をつけるために名家の公家の娘を妻に迎えるということは、ときどき行われていましたが、武家の中でも今川家は、将軍足利家の一族であり源氏の名族でもありましたので、この婚姻は寿桂尼にとっても決して悪い話ではなかったでしょう。

夫婦仲は良好であったようで、寿桂尼は氏親との間に氏輝、彦五郎、義元の三人の男子を産んでいます。もっとも、幸せな夫婦生活は長くは続かず、氏親が体調を崩して病床にあることが多くなったことから、寿桂尼は氏親に代わって政務を執ることが多くなっていきました。

この頃、後の世に今川仮名目録として知られることとなる分国法が、今川家において施行されています。戦国大名が出した分国法の中でも優れた内容であると高く評価されている、この目録は一説によると寿桂尼が側近の支援を得て取りまとめ、氏親の名前で出したものではないかとも言われています。それだけ、当時の寿桂尼の政務における力量が優れていたのではないでしょうか。

3.波乱の今川家


長く病床にあった夫の氏親は、1526年についにこの世を去ります。氏親と寿桂尼の長男である氏輝はまだ14歳でしたので、引き続き今川家の政治は寿桂尼が取り仕切ることとなりました。

この頃に寿桂尼が発布した文書がいくつか残されており、その中には彼女の押印があるものが存在しています。この印は今川家に嫁ぐ際に父親から与えられた物であると言われています。

寿桂尼の活躍により、氏輝への当主の地位の継承は大きな混乱なく行われ、やがて成人した氏輝は自ら政務を執り行うようになります。これによって、寿桂尼には平穏な日々が戻ったはずでしたが、運命は彼女をさらに過酷な状況へと追いやります。

1536年に氏親とその弟の彦五郎が相次いでこの世を去るという一大事が発生し、その後継を巡って今川家では花倉の乱と呼ばれる内乱が勃発します。この跡目争いの一方の当事者が寿桂尼の三男であった梅岳承芳(還俗後は義元を名乗る)でもう一方が氏親の側室の子であった玄広恵探でした。一説によると、この時、寿桂尼が実の息子ではない後者を支援したとも言われていますが、結果的にはこの争いを制したのは義元でした。

義元は、太原雪斎という優れた軍師のサポートを受けて、今川家の版図を順調に拡大し、駿河に加えて遠江、三河から尾張の一部にまで勢力を広げることに成功します。この頃が今川家の最盛期であり、それを実現した義元は巷で言われるような暗愚な人物では決してなかったことが分かります。

4.死して今川の守護たらん


しかしながら、良く知られているように1560年に義元は思いもがけず桶狭間の戦いにおいて織田信長の奇襲に敗れ、その命を落とすこととなります。残された嫡子の氏真には、混乱する今川家を統率するだけの力量が十分でなかったことから、既に高齢となっていた寿桂尼は、再度表舞台に立ってお家のために奔走することとなります。

義元を失った今川家に対し、甲斐の武田信玄は侵攻の意思を隠そうとはしなくなり、やがて両家の同盟に大きな役割を果たしていたその長男の義信は謀反の疑いをかけられて自害させられ、妻である氏真の妹は今川家に返されます。この状況にあって、寿桂尼は武田との衝突を回避すべく数々の策を実行し、実際にそれによって彼女の存命中は信玄といえどもうかつに今川家を攻めることはできませんでした。

その寿桂尼でしたが、寿命には勝てず1568年についにこの世を去ることとなります。死にあたり「死しても今川の守護たらん」という言葉を残し、その意思に従って亡骸は今川館の鬼門の方向にある龍雲寺に埋葬されました。

寿桂尼を失ったことで、武田・今川の外交関係は完全に途絶えることとなり、やがて信玄の侵攻によって今川家は滅亡の道を転がり落ちていくのです。

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